炎のメモワール
日本語訳
はじめに
2018年5月 小野 英子
信子は1906年(明治39年)、日系移民二世として、アメリカ合衆国ハワイ州ホノルル市パウワヒ街に生まれました。アメリカ国籍を持ち、現地の学校に通って英語で教育を受けましたが、13歳のときに日本に帰って広島に住み、英語教師となるべく勉学に励みました。そして、同じように英語教師を目指していた山本信雄にめぐりあい、結婚。信雄は旧制県立広島第二中学校(広島二中)の、信子は旧制広島市立女学校(市女)の英語教師として働き、私の姉・洋子と私・英子の親となりました。
1945年8月6日、広島に一発の原子爆弾が投下され、爆心地近くで二中の1年生321人と共に建物疎開の作業に従事していた信雄は、全身に火傷を負って、その日のうちに死亡。洋子は観音国民学校の校庭で被爆し、2日後の8月8日朝、郊外の救護所で死亡しました。
原爆投下2年後という、まだ心が血を噴いているような状態の中で、なぜ信子はこの手記を書いたのか。それは、世界の人々に原爆の悲惨さを知ってもらいたいという願いからでした。手記はアメリカの『TIME』誌宛てに送付されましたが、GHQの検閲にかかって没収され、願いはかないませんでした。
信子は70歳のときに甲状腺がんで亡くなりました。遺品の中に手記を発見し、その願いをかなえたいと思って、英語、日本語、エスペラント語の小冊子にまとめました。小冊子は1982年の国連軍縮特別総会などで配布され、信子の願いの一部をかなえることができました。
原爆投下72年が経過した今、もう一度、信子の想いを伝えたいと、日本語のみをまとめました。どうぞお読みくださいますようお願いいたします。
第2回の広島原爆記念日が近づいてきた。人びとはすでに原爆について忘れ去ったかにみえる。あれほど大きな被害を受けた私でさえ、ほかの人たちからみれば、すっかり忘れているように思えるだろう。
本当に忘れることができたら、どんなにいいだろう。毎朝、目覚めるたびに、ベッドの中で英子と一緒に死んでいたらよかったのにと思う。もしこの娘がいなかったら、こんなにも大きな痛みや苦しみを心に抱えて生きるよりも、自殺するほうを選んだだろう。まるで生きたまま牢獄に閉じ込められたような生活である。
だが、ときどき私は考える。もしかしたら私は、原爆の悲惨さと恐怖を世界中の人たちに知らせるために、生命を助けられ、生き続けるように運命づけられているのではないかと。私のつたない手記で、ひとりの人間の受けた苦しみを少しでも分かってもらえたら、と願う。
私はアメリカ国民として、ハワイ州ホノルルで生まれた。偶然にも、生まれたのがこの戦争の発火点の近くであり、かろうじて死をまぬがれたのが戦争を終結に導いた場所であることを思うと、自分の生涯に運命的なものを感じる。
13歳で日本に帰り、広島で第二の人生を始めたが、愛する人も一緒に遊ぶ人もいないさびしい子どもだった。ホノルルに帰りたかった。友だちに会いたかったし、楽しい時間をすごした場所、特に学校をもう一度見たかった。広島には読むものも、話す相手もなかった。日本語を話さなければ級友にいじめられ、仲間はずれにされた。ときどきおかしな日本語を使って笑われ、そのことが私の心を深く傷つけた。
ハワイを離れて四半世紀がゆっくりと過ぎたが、ハワイの思い出はいつも胸の中にあった。戦争が始まり、周囲の人たちは初期の日本の勝利で大喜びしていたが、私は自分が生まれた国に対し、その人たちと同じ気持ちを持つことはどうしてもできなかった。その時、私にはふたりのかわいい娘と愛する夫がおり、ともに広島で英語教師をしながら、楽しく幸せに暮らしていた。あの破滅の日が来るまで。
どうして私の愛するアメリカが、私の夫と娘を殺すように、運命づけられていたのだろう。なぜ私も同じ爆弾で殺してはくれなかったのだろう。楽しかったその日までの生活が、なぜこのような悲惨な終り方をしなければならなかったのか。
憎しみが私の中にわきあがる。私の8歳になる娘に、死が救ってくれるまでの2、3日、おそろしい苦しみを味あわせたあの原子爆弾への憎しみが……。
1945年8月6日の朝は晴れて澄みわたっていた。私は5時半に起きて朝食の仕度を整え、二階で眠っていた夫と娘たちに、階下に下りてくるよう声をかけた。昨夜は空襲警報のたびに何度も起きたので、とても疲れていると言いながら、夫は下りてきた。
私たち4人は朝食をとった。しかし、まさかこれが私たちが一緒にとる最後の食事になるとは、思ってもいなかった。
夫と私は、その日の夕食について話し合った。1ヶ月ばかり前に、私は田舎の疎開先から娘たちを連れ戻すために、長年勤めた学校を退職した。その学校から、食事に招待されていたのだ。夫は、私が留守の間、自分で夕食を作り子どもたちの面倒をみるといった。
私たちは、その朝、隣の人が持ってきてくれた餅を食べた。1個ずつ食べたあとで、1個だけ残った。私が、それはおやつに残しておきなさいというと、上の娘の洋子が、
「母ちゃん、私はいま食べたい。もし今日、空襲があって死んだら、食べられなくなるでしょ」といって、妹の英子と2つに分けて食べた。
昨夜からたびたび出されていた空襲警報はそのころ解除されていた。私は、「洋子ちゃんは警報が解除されたのがうれしくないみたいね」と言った。
洋子は黙っていた。その頬には、学校に行かなければならないのを辛がっているような表情が浮かんでいた。
数日前に洋子を休ませようとしたとき、夫は、私が洋子に甘すぎると叱った。
「僕は小学校6年間、1日も学校を休んだことはない。だけど、お前はちょっとしたことで、『洋子、今日は休みなさい』というね」
そのとき、私はどんなに言いたかっただろう。
「いまは戦争中よ。あなたの子ども時代とは違うわ」
しかし、黙っていた。
朝食がおわると、娘たちは水遊びをしに風呂に入った。夏の盛りのことで、水遊びは娘たちの最大の楽しみのひとつだった。
夫は出かける仕度をした。市の中心部に生徒たちを連れて勤労奉仕に行くのである。彼は、その日、そこで何が起きるかを予感したかのように、ゲートルを巻きながら言った。
「ぼくは生徒たちに、警報が発令されていたら来なくていい、解除されたら来なさいと言っておいた。解除されたから、もう子どもたちは家を出ただろう。今日は来なくていいと言えばよかった」
そして、風呂場の洋子に言った。
「洋子ちゃん、学校に行きなさいよ」
それが最後の言葉だった。もし彼が、生徒たちのことをそれほど心配していなかったなら、もし彼が規則に忠実で勤勉な正直な人でなかったなら、そしてもし、ほんの少しだけ怠け者で利己的であったなら、生きのびてこの平和な社会で有能な英語教師として将来を約束され楽しく暮らしていただろう。平和、それこそが、他の誰よりも強く、彼が憧れていたものである。
私は朝食のあと片づけを終えると、七輪の上で大豆を煎りながら、夫が前夜まで読んでいた本を読み始めた。ロンドンに滞在している著名な日本婦人についての本だった。
しばらく読んでいると、風呂場から洋子が聞いた。
「母ちゃん、今、何時?」
私は顔をあげて、彼女を見た。彼女は湯舟の中から笑いながら私を見ていた。洋子はかわいい子だった。誰からもハンサムだといわれた父親ゆずりの、色白で大きな瞳、高くて形のいい鼻、小さなロもとをしていた。
「8時よ」と、私は答えた。
「学校へ行くにはまだ早すぎるけど、そろそろ行こうかな」
といいながら、洋子は風呂から出て、数日前に私が浴衣をといて作ってやった服を着た。そして帽子をかぶりながら茶の間にきて、棚の上の葉書を取り上げて言った。
「母ちゃん、行ってきます。この葉書、出しておいてあげるネ」
それが彼女の最後の言葉になった。私はその言葉を決して忘れることはないだろう。死の瞬間でさえも、私はその言葉を思い出すだろう。洋子が最後のときまで私を手助けしようとしてくれたことを思うたび、私の心は彼女への哀れみと悲しみでいっぱいになる。それなのに、私はその顔を見ようとしなかった。彼女が帽子をかぶり、葉書を手にとるのは視野の端で見ていた。しかし、その顔を私は見なかった。大豆を煎ることと読書とに熱中していたのだ。どうして私は、そんなに彼女に冷たくしたのだろう。どうして私は、あんな危険なときに、うかうかと彼女を学校に行かせてしまったのだろう。
静かな数分が過ぎた。七輪の上で煎っている豆の音以外は何も聞こえなかった。英子はまだ風呂場で遊んでいる。その時、頭上を通り過ぎるB29の、低い、にぶい爆音が聞こえた。
「母ちゃん、敵機が来たよ」英子が叫んだ。
「すぐに出て、服を着なさい」
そう言ったとき、突然、空は夜のように暗くなり、夏の朝の光よりもっとまぶしい稲妻のような閃光がつらぬいた。地面をたたきつける雷のような音がはじけた。私はとっさに両手で顔をおおい、畳にうつ伏せになった。すさまじい音とともに天井が頭の上に崩れ落ちてきた。しばらく、そのままでいた。
「英ちゃん、どこにいるの?」
起き上がるなり、私は叫んだ。右目の上に血がしたたり落ちていたが、痛みは感じなかった。
英子は隣の部屋にいた。素裸で、ほこりにまみれて、壊れた材木でできた巣のようなところに丸くなっていた。私は彼女を抱きかかえると、こわごわと周囲を見わたした。タンスが倒れ引出しが散乱し、直径30センチほどの大きな丸太が英子のすくそばに倒れていた。英子が負傷しなかったのは奇跡だと思う。非常におびえて私にしがみついてきたが、背中に教カ所かすり傷をおっただけだった。英子を抱いて、外に出てみた。
ずいぶん遠くまで見渡せる……最初にそう思った。隣りの家の屋根が、足元まで飛んできている。いたるところに瓦が散乱していた。真向いの家では、食事中の4人家族が屋根の下敷きになって焼け死んだと、後になって聞いた。いくつかのビルは残っていたが、はるか遠くまで瓦礫の原が続いている。
それらの残骸のなかに、長く結核で寝たきりだった近所の若い女性が、紙のように白い顔で立っていた。彼女は、まるで幽霊のように両腕を空中に振り回しながら、私のほうによろめき歩いてきた。向かいの家の主婦が、腰巻きだけの姿でやってきた。私を見るなり、彼女はすすり泣き、叫んだ。
「奥さん、着物を着ようとしていたら、爆弾が落ちたんですよ」
この朝、私が聞いた泣き叫ぶ声は、この彼女のものだけである。6歳の英子でさえ、一言もしゃべらず、だだ私にしがみついていた。やがて彼女の夫がパンツ一枚の姿で、うつろな目でフラフラと出てきた。頭から足の先まで血で染まっている。ふたりは腕を取り合うと、どこかへ歩き去った。
「いちばん近くの救護所はどこだろう」
今朝、餅を持ってきてくれた隣の男が、割れ目の入った自分の頭を両手で抱え込むようにして私に聞いた。逆立った髪の中にきつく指が食い込んでいる。指の間から、どくどくとあふれ出る血が、男の顔や肩にしたたり落ちている。
「たぶん南のほうだと思うけれど」
と答えはしたが、私自身どうしていいかわからなかった。洋子のことが心配で、どうやってあの子の所に行こうか考えていた。
町内会の会長が負傷者を肩にかついでやってきた。70歳ほどの老人だが、町内会の活動を指導している男だった。
私はぼんやりと彼をみつめ、言った。
「うちの洋子が観音国民学校にいるんです。助けに行かなければ」
「あのあたりは大丈夫だよ」
と、彼は答えた。
私は英子の着るものを探しに、家の中へ駆け込んだ。そして、運よく重要書類が入った袋をみつけた。
火の手がもうあがっていた。隣の家はすでに炎に包まれている。誰も消火しようとしない。みんな逃げるのに必死なのだ。
死んだ男が道にころがっている。大勢の男や女や子供たちが歩いてきた。ほとんどが、むごたらしく負傷していた。特に女たちが、髪をふり乱し、血を流しているのは、見るも恐しい光景だった。みんな、おし黙って、同じ方向へ、南へ、郊外へと歩いていった。
私は洋子の学校に行こうとした。そのためには燃えさかる家々の間を通りぬけねばならない。英子はおびえて泣きわめき、私を引き戻した。どうしてよいかわからず、私はその場に立ちつくした。
しかし、私はいま後悔している。なぜ英子を待たせておくなり、近所のだれかに頼むなりして洋子を助けに行かなかったのだろうか。なぜ学校に向かって、炎の中に飛び込んではいかなかったのだろう。炎の中に道をみつけることができたかもしれなかったのに。洋子は私を待っていたはずだ。私を引き止めたのは、はたして英子だけだったのだろうか。私自身、炎が恐しかったのではないのか。
その時、私の教え子だった少女が、泣きながら走ってきた。
「おばあちゃんが家の中で材木の下教きになったのに、助けてあげることができませんでした。学校に妹を探しに行ったけど、もう誰もいません。みんな逃げたのでしょう」
私はどうしていいかわからず家に引き返した。家は燃え上っていて、近づくこともできなかった。しばらく立っていたが、あきらめて英子を抱きあげ、郊外に向かって走った。
まもなく、雨が降り始めた。はげしい降りではなかった。広島市全体が、燃え上っていた。家の崩れる音がまるで雷のように鳴り響き、空は煙で真っ黒になった。その光景を人々は黙って見ていた。
広島市と郊外の間の川は、引き潮で浅かった。英子を抱いて川を渡り、郊外の高須町にある友人の家に行った。そこで私たちは、夫と娘を待った。以前から、もし別れ別れになったら、ここで会おうと決めていたのだ。だが、ふたりともやってこないので、私は市の方に向かった。
橋のたもとで、一群の人びとに出会った。その中には頭が普通の二倍の大きさにふくれあがった男の子たちが大勢いた。まぶたがはれあがって、目が糸のように細くなり、唇もまくれあがっていた。衣服はぼろぼろで、ススでおおわれたように真っ黒な顔をしていた。皮膚がゆでたじゃがいものようにむけている子が、何人もいた。
その子たちの年齢から考えて、市の中心地で勤労奉仕をしているときに惨事にあった中学生たちだろう。もしかすると夫の教え子たちかもしれなかった。だが、その逃げていった子どもたちも、数日後にはすべて死んだそうだ。道ばたで、学校で、役場で……。幸運な何人かは自分の家で……。
橋を渡って市中に入ると、さらに多くの人びとがいた。赤く焼けただれた大勢の人が道ばたに横たわっていた。負傷者を寝かせたリヤカーを引いている人たちもいた。だれの衣服もボロボロだった。石造りの小さな家の中に男があお向けに横たわって、手足をねじり合わせたり、宙につき出したりしながら叫んでいた。
「あついよォ、あついよォ」
その声は、今も私の耳に残って離れない。同じ夜、私の洋子も「母ちゃん、あついよォ」と叫んでいたのだ。
わが家のあった所に行った。焼けて何も残っていなかった。洋子の学校に行っても、焼けた材木の残骸以外は何もなかった。しだいに暗くなってきた。私は恐しくなってきて、引き返すことにした。
大通りをひとりの男が、リヤカーを引いて歩いてきた。リヤカーには誰か乗っているようだ。道路に倒れていた男が、泣きながら彼を呼んだ。
「一緒に連れていってくれ 頼むから連れていってくれ」
リヤカーを引いた男は立ち止まった。しかし、すでにそこには誰かが乗っている。
「すまんが、運んでやれんのじゃ」小さな声で言うと、男は走り去った。
私は、高須の家に帰って眠った。洋子のことを心配し、心を痛めながら……。
次の朝、観音国民学校の子供たちは南観音町に集められていると聞き、その方向に歩き始めた。だが、途中で、五日市町か廿日市町にいると聞き、引き返して国道をその町に向かった。
途中、荒手(あらて)の町を通りかかったので、国民学校に行って、教室をすべて探してみた。そこには恐しい光景が広がっていた。教室はすべて男や女や子どもでいっぱいだった。多くは、すでに死んでいた。真っ黒に、または真っ赤に焼けただれ、仰向けになり、うつ伏せになり、あるいは両手両足を宙に浮かせた負傷者たちが、壁までぎっしりつめ込まれていた。床は血でおおわれていた。私は小さな子どもたちの顔を、洋子かもしれないと恐れながら、ひとりひとり見て歩いた。入口の近くでは、白衣を着た医師と看護師とが、死体を運び出していた。ふたりとも怒ってイライラしているように見えた。
草津の町に来たが、五日市か廿日市に急いでいたので、そこは通り越してしまった。ああ どうしてこの町だけぬかしてしまったのだろう。後でわかったのだが、私の洋子は、その時、この町にいたのだ!
五日市公民館にも大勢の人々が集まっていた。私はその間を「洋子ちゃん、洋子ちゃん」と呼びながら歩いたが見つからなかった。以前の教え子にそこで出会った。顔がふくれあがって、私は見わけられなかったのだが、彼女の方から声をかけた。
「先生、両腕がうんできちゃったんです。いつか良くなるかしら」
私は彼女を元気づけるようなことをいった。でも洋子を見つけるまでは、何もしてあげられない。人びとが集まっている所にはすべて行ったが、見つからなかった。
とうとう地御前(じごぜん)の町までやってきた。私は洋子がそこにいればいいと期待していた。以前、もし空襲にあったら地御前に逃げようと話したことがあったので、洋子は利口な子だから、ここにきているかもしれないと思ったのだ。そこで何人かの観音国民学校の子どもたちに会った。子どもたちは階段に座って、誰かれとなく泣きながら聞いていた。
「お父ちゃんやお母ちゃんは、いつ迎えにきてくれるの?」
その子たちに、私は、山本洋子を知らないかとたずねた。だれも答えなかった。昼すぎてから、もう数時間たつ。どうしたらよいのかわからないまま、引き返した。帰り道で草津の町に行ってみた。ここはただ一カ所、まだ探していなかった町だ。国民学校の教室すべてを見て回ったが、洋子はいない。職員室で、負傷者の名前を記録した紙を見せてくれた。その一枚に、簡単に「山本洋子」の名前が書かれてあった!
高鳴る胸をおさえて、室内の男に、洋子は今ここにいるかたずねた。
「ここに名前の出ているのは、昨日市内から運ばれてきた人たちだ。でも、けさ点呼したときには、もうここにはいなかった。死んでほかに運ばれたか、自分で出ていったのかもしれない。重傷でない人たちは出ていったからな。もう一度、探してみなさい」
私は引き返し、教室内を再び見て回った。ひどい負傷をしたり、焼けただれた人たちが、水をほしがっていたが、洋子を見つけ出すまでは、その人たちに水を持ってきてあげる時間はない。
洋子はどこにもおらず、もしかすると高須の家に行っているかもしれないと思って、私は急いで帰った。だが、洋子はきてはいなかった。私は夜明けを待ちながら、惨めなもう一夜を送った。
次の朝、8月8日、私は再び草津へ向かった。夫のことは何も聞いておらず、生きているのか、死んでいるのかも分らなかった。私の心は洋子のことでいっぱいで、夫のことまで考えられなかった。大人なのだから、自分でどうにかするだろう。広島全市が一瞬にして壊滅したとは、その時になってもだれも知らなかったので、私はまだ夫が無事に帰ってくると期待していた。
草津国民学校でもうー度洋子を探したが、無駄だった。そこで、8歳になる女の子が今朝死んだと聞いたが、まだ私はそれが洋子だとは思わなかった。奇妙なもので、人間はまったく望みの持てないようなときでも、何とか希望を持とうとするものだ。その子は洋子だったかもしれない。でもそのときは、きっと違うと思った。
私はあきらめかけ、最後に死体の置いてある納屋を探してみようと決心した。その小屋は校庭の隅にあった。納屋のまわりのムシロにも、たくさんの死体が転がっていた。私は身体を引っくり返しながら、ひとつひとつ顔を確かめていった。小屋に入ると、そこに、ふたつの大きな男の死体の間に、洋子が横たわっていた!
洋子はムシロに巻かれ横向きになり、まるで眠っているようだった。緑と紫の花柄の浴衣地の洋服を着ていた。この私がそれを作ったのだ。洋子に間違いなかった。
目を閉じ、唇が少しはれていた。だが、それは私が愛し、そして世界中の誰よりも私を愛してくれたあの洋子であった。
「母ちゃん、私は世界中で一番、母ちゃんが好き。ガミガミ叱られているときでも、母ちゃんが好きよ」
洋子の身体は、他の死体のように黒くはなく、真っ白だった。だが、かわいい頬は焼けただれ、手足はひどい火傷だった。おなかにさわると、何日も食べていなかったようにペチャンコだった。
なぜ気が狂わなかったのかわからない。私は大声で泣き叫び、あちこち歩き回って、娘を私の家に連れていってくれと頼んだ。私に注意を払ってくれる人はひとりもいなかった。あまりに大勢の人が死んだので、小さな子どもがひとり死んだところで大した問題ではないのだ。子どもを亡くしたのはあなただけではないのだから静かにするように言われ、さらに、彼女を火葬にするまで待つようにと言われた。私には洋子を連れて帰る家もないのだし、ここで火葬にしてもらうほうがよいと思った。
ひとりの婦人が私に話しかけてきて、自分の娘が今朝死んだこと、そしてもうひとり小さな女の子が死ぬ間際まで「水をちょうだい、水をちょうだい」と泣いていたと、いった。それは洋子に違いなかった。
あの子はまる2日間、どんなに父や母を求め、水や食物をほしがって泣き苦しんだことだろう。世話をやいたり、水を与えたりする人はきっとひとりもいなかったろうと思う。だれも、自分の肉親のことで手いっぱいで、他の人たちの願いをかなえてあげる余裕はなかったのだ。私自身、洋子を探している間、他の人どころではなかった。
私は学校の中に入ってみた。負傷者でいっぱいの教室のそばを通ると、中からだれかが声をかけた。
「おねがい、水をください」
若い娘だった。身体の半分に火傷を負って横たわっていた。私はバケツを持ち、学校の前の家に行った。水を下さいと頼むと、外に立っていた若い婦人が、負傷者が水を飲むとすぐ死んでしまうから、水をやってはならないと命令が出ているのだ、といった。学校の裏の家に行ってみた。この家の主婦は、好きなだけ井戸から水を汲むように言ってくれた。バケツに水をいっぱい入れて引き返し、娘の唇に水をそそぎ入れてやった。
「ありがとう、おいしい」
彼女は何度も何度もそういいながら、私の与える水をすべて飲んだ。すると教室の中の人たちが、みんな水をほしがった。一人ひとりの唇に水をそそいでいくと、バケツはすぐ空になった。私はもう一度行って、水を満たしてきた。
そんなことを繰り返しながら、夫のことを考えた。彼もまたどこかで横たわり、水を求めているのではないだろうか。夫のところに行かなければ、せめて一杯の水でも飲ませてあげなければ
みんなが充分飲み終ると、私は洋子に別れを告げに戻った。私は激しく泣きながら、呼びかけた。お母ちゃんもすぐに行くからね……この子をこんなふうに死なせたのは、すべて私の罪なのだ。疎開先から連れ帰らなかったなら、あの朝、学校に行かせなかったなら、この子は死ななかっただろう。あんなに休みたがったのに。もし私があの朝すぐに助けに行っていたら、たとえ死んだとしても、あの子は私の腕の中で死ねたろうに。
高須に戻り英子を連れて夫の学校に行った。焼けあとに臨時の事務所ができていて、学生や教師の肉親の問い合わせに答えていた。そこで私は、夫が300人余りの生徒たちとともに、市の中心地で死んだことを知らされた。彼の万年筆、手帳、数枚の手紙、そして自転車の鍵がその場所で発見されたのだ。
「そこに行けば、先生の遺骨が見つかるかもしれませんよ。軍隊がきて、死体は全部、火葬にしたのですが、その中の大きいのが先生のでしょう」
私には夫の骨を拾いに行く気持ちはなかった。もし、生きているにせよ死んでいるにせよ、彼の身体がまだそこにあると知ったなら、とんでいったろうけれど。
原爆は広島市の中心に落とされたのだ。そこは被害が最もひどかった。どこも死体でいっぱいで、その上を歩かねばならなかったという。川に続く石段には12歳から14歳の子どもたちの死体がうずたかく積まれ、いくつも山を作っていた。どの子も頭から足先まで材木のように焼けていたという。みんな広島の中学校の生徒で、火が出た時の被害を最小限にくいとめるために家をとりこわす作業の手伝いに、県の命令できていたのだ。暑い8月だ。いつもなら川や海で夏休みを楽しんでいたろうに。だが、これも県の命令に従わねばならぬ教師に指導されて、労働を強いられていたのだ。
13歳になる娘をなくしたある母親は、涙を流しながらいった。
「あの朝、娘はとても疲れていて学校に行きたくない、といいました。でも私は、行くのがあなたの義務よ、お友だちが働いているときに、あなただけ家にいるのは正しくないわ、といいました。ノロノロと出ていった娘の姿を、私は忘れることができません。あんなに家にいたいといったのに、どうして送り出してしまったのか!」
私は生徒の父親や母親から似たような話を何度となく問いた。お国が戦争をしている時に遊ぶのは悪いことだ、という考えが一般的で、私たち大人は過酷にも、その年齢の子どもたちが身体的には私たちより弱いことに気づかず、また子どもたちは不平も言わず親や教師に従うほど純真だった。
次の日、私は英子を連れて宮島に行った。そこで英子とふたり入水しようと決めたのだ。英子の欲しがるものはすべて買ってやり、水着を着せて海に入った。引き潮だったので、ずっと遠くまで歩いていかなければならなかった。
私は英子の頭を水の中に押し込んで、溺死させようとした。しかし、英子は水の中で幸せそうに遊んでいて、私にはとてもできなかった。この子は、父親と姉がいないことをあまり感じておらず、私と一緒にいるかぎり、さびしいとは思わないようだった。この小さい天使は何事もなかったかのように、水の中を跳ねたり走り回っていた。この子にも、ほかの子どもと同じように生きる権利はあるのだ。この子を私から離すことはできない。かといって一緒に死ぬこともできない。
それ以来、夫や洋子のもとに行くことを願いながら、生と死の間をさまよって生きてきた。英子の無邪気な顔を見ると、殺すことも、また、私が自殺をして、この残酷で冷たい世の中にひとり放り出すこともできなかった。しかし、洋子の死の原因が私にあると考えると、自分が罪深く感じるのだった。
全能の神は、人間にこのような地獄を課すことをお許しになるなんて、何を考えられたのだろうか。天国と地獄は、この人生に、地球の上にあると私は信じている。私は最もむごたらしい地獄を見たのだ。もしダンテが生きて原爆のさまを見たなら、『神曲』で書いたより、もっとすさまじい地獄を書いただろう。
私はまた、天国も知っている。天国は物質的な豊かさではない。天国とは私にとって、そして多くの女性にとってもそうだろうが、家庭の幸福、夫や妻、子どもたちとの間の互いの愛情から生まれる平和と満たされた思いである。暗い日々を、幸せだった頃の思い出だけが支えてくれる。
アメリカでも多くの母親や妻たちが、夫を、息子たちを亡くしたという事実を考えずにはいられない。そしてそれが原爆の使用を理由づけているのかもしれない。しかし、もしその人たちが、核兵器の凶暴な残酷さを見ることができたら、そしてもし原爆が残した傷あとと悲惨さを理解することができたら、もう二度と原爆を使用しようとは誰も考えないだろう。
この戦争という無意味な虐殺には、終結がないのだろうか?